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2022/05/17
若狭と京都を結ぶ「鯖街道」の最大の宿場町として、大いに繁栄した「熊川宿(くまがわじゅく)」。
馬や船の荷継場として発展し、問屋・番所・お蔵屋敷跡などが今も残る町並みは、往時の繁栄を偲ぶことができ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、鯖街道の熊川宿は日本遺産にも認定されています。
当時の町並みが今も残る、街道に沿って流れる前川用水とともに情緒あふれる宿場町・熊川宿について、鯖街道とともに紹介していきます!
目次
熊川宿とは?
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された約1kmの街道沿いに、昔ながらのレトロな町並みが残る熊川宿。問屋・番所・お蔵屋敷跡のほか、資料館、ギャラリー、道の駅、食事処、お土産処、休憩所などが立ち並ぶ観光スポットともなっています。このように熊川宿は、かつて若狭と京都を結ぶ鯖街道の最大の宿場として繁栄しました。元々は小さな村でしたが、室町時代になると足利将軍直属の武士・沼田氏が戦略上の要地として山城を構えました。さらに、豊臣秀吉に重用されていた浅野長吉(長政)が若狭の領主となった際には交通・軍事の要衝として発展させようと、諸役免除の布告を発する政策を打ち出しました。以来、領主は代々この政策を受け継ぎ、熊川は宿場町として中世末から江戸時代にかけて大きな繁栄をしていったのです。
熊川宿の発展を支えた鯖街道
若狭は、古代より奈良や京の都の朝廷へ食料を恒常的に献上する「御食国(みけつくに)」の役割を担った地域でした。この若狭の海の幸を運ぶために、若狭と京を結ぶ多くの街道が利用されました。18世紀後半からは若狭湾沖で大量に水揚げされるようになり、大衆魚でもある鯖が多く運ばれるようになりました。それで、近年ではこれらの道は総称して、「鯖街道」と呼ばれるようになりました。熊川宿を通る若狭街道もその一つです。当時の人々は、若狭湾で獲れた鯖に“一塩(ひとしお)”して(塩でしめて)、「京は遠ても十八里(京の都へは遠くてもせいぜい72kmぐらいだ)」の気概をもちながら、この街道の峠を越えて京都まで運んでいました。運ぶのに丸一日を要しましたが、京に着くころにはちょうど良い塩加減になったと言われています。若狭・小浜では、鯖街道の起点として食文化が発展し、「へしこ(鯖を塩漬けし、さらに糠漬けにしたもの)」や「なれずし(鯖のへしこを熟成させた発酵食品)」など、長期間保存・食用のための加工技術が発達し独自の食文化が生まれました。令和2年3月に、小浜市に「鯖街道MUSEUM」もオープンしました。日本遺産に認定された「鯖街道」をはじめ、鯖街道と深い関わりのある、もう一つの日本遺産「北前船寄港地・船主集落」など小浜市の文化財や祭礼等を紹介する施設です。
熊川宿に来たら是非訪れたい!おすすめスポット
宿場町の近江側、東の入り口にあった番所が復元されたものです。復元建物内には番所役人の人形や弓矢、刺す股(さすまた)などが展示されて、「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われていた当時を偲ぶことができます。重要伝統的建造物群保存地区内で、元の位置のまま現存している全国的にも珍しい歴史建造物です。
江戸時代初め、厳しい年貢の取り立てに苦しむ若狭の農民の代表となって、領主に大豆の取り立てを元に戻してほしいと嘆願し、最後は自身の命を犠牲にして悲願を達成した松木(まつのき)庄左衛門の霊が祀られています。石段脇には悲嘆の銅像が建てられています。
昭和15年に熊川村役場として建てられた近代洋風の建造物です。現在は熊川宿と鯖街道の歴史を教えてくれる資料館として改修され、様々な資料が展示されています。寄棟瓦葺きの屋根や円柱が配されたポーチなど、洋風のデザインが、熊川にも押し寄せた近代の影響を色濃く残しており、熊川の歩んだ時間の流れを感じさせてくれます。
大人から子供まで、また海外の方々にも鯖街道の歴史を分かりやすく紹介している、白壁の土蔵造りの資料展示館です。
その他にもSaba*Caféなどのカフェや忍者体験ができる若州忍者道場といったものまで、歴史あふれる町で素敵な時間を過ごせるスポットがたくさんあります。
熊川宿へのアクセスと詳細
熊川宿・鯖街道
【住所】福井県三方上中郡若狭町熊川
【電話】0770-45-9111(若狭町観光商工課)
【時間】終日
【駐車場】あり
【料金】無料 ※ボランティアガイド「若狭町かみなかの語り部」は無料(ただし交通費としてガイド1人あたり1カ所につき1000円必要)、詳しくは事務局(若狭町観光商工課 0770-45-9111)まで
【交通アクセス】
〇JR小浜線「上中」駅から近江今津行きJRバス「熊川」下車徒歩約3分
〇舞鶴若狭自動車道「若狭上中IC」から車で約15分
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