2022/04/27

府中の寺町 その形成の謎
— 地理学的視点からの一考察 —

府中(現在の越前市)は、古来より越前国府(政治)、府中城下(軍事)、北陸街道府中宿(交通)といったさまざまな要素をもって発展してきた北陸の要衝でした。現在も旧市街地には、江戸期の古地図に描かれた町割りが表街道から細い裏路地にいたるまで残っています。今も直線道路が少なく、突如として道がカギ折れになったり、「卍が辻」と呼ばれる枡状の小広場があるなど、城下町としての色合いが濃いまち並みと言えます。

■江戸時代中期
正徳元年(1711)頃の市街地周辺。今も残る國分寺や経王寺、龍門寺などが描かれています。
■現在
現在の越前市の旧市街地周辺。今も寺院が集中しているのがわかります。
城下町の形成は、戦国期に織田信長によって派遣された前田利家が府中城に入ったことが始まりです。後に越前一国68万石の福井藩主となった結城秀康(家康の次男)の御附家老、本多富正が府中3万7千石の領主となったことで整備されました。江戸幕府草創期だった当時は、豊臣氏が1615年の大坂夏の陣で滅ぶまで依然として勢力を持ち、金沢には豊臣方の最大勢力、加賀百万石の前田氏がいました。徳川親藩の大大名である福井藩の役割は、北陸南部の抑え、特に前田氏の監視・牽制であり、府中の役割は大阪をにらんだ防衛基地とも考えられます。

府中を地理的に俯瞰すると、本城である福井城がある北面と天然の堀となる日野川が流れる東面よりも、京都までつながった北陸街道が延びる南面と日本海のある西面が防衛上で要注意となります。防御の砦となるのは城だけではありません。境内が広い寺院は、有事の際には兵の駐屯地となり、要塞として利用されていました。

結果的に現在の寺院配置を見ると、城下南側の元町〜武生柳町(地図中【6】【8】【13】【18】【19】)といった北陸街道沿い、そして城下西側の深草〜京町エリア(地図中【1】【3】【17】)に寺院を集中させることで、防衛ラインを築いたということは十分に考えられます。この時、寺院建設用地として、古代の国府関係の建物があった跡地が利用されたという説もあります。
その後、これまでの長い年月のなかで数度の大火や江戸幕府の寺請制度の消滅等により、やむなく廃寺になったところも少なからずあったに違いありません。しかし、空襲の被害を逃れた旧市街地には、本多富正の頃のまちの雰囲気を伝える、数多くの寺院が今も見られるのです。(諸説あります)

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