【渡邉義信のWATANABE語録。】

[WATANABE語録①]彩の国から始まる社長列伝。

2019/10/02

「モノづくりの人材育成を通じて社会と地域に貢献すること」を経営理念に掲げる『株式会社プロダクト・マイスター』の代表取締役・渡邉義信社長と日々URALA編集部の対談。令和を生きる、次世代を担う若者たちへ、イマ熱いオトコが語る“ちょっとイイ話”を対談形式でお送りいたします。

私の「履歴書」

--社長のお生まれは福井県じゃないんですよね?

渡邉:京都生まれ京都育ちです。

--京都のどちらのお生まれですか?

渡邉:左京区ですね。兄と父の影響で物心ついたころから、ボールを握らされて野球をしているというような子供時代でした。

--お父さんとお兄さんが野球をやってらっしゃる…?

渡邉:いや、親父は野球好きのおじさんで。子どもの頃の記憶って野球をしている記憶しかないですね。小中高はずっと野球をやっていたという。

--高校はどこですか?

渡邉:京都ではそこそこ名の通った高校でした。投手の特待生で入ったけど、身長がなかったのですぐに外野手に転向しました。3年生のときは京都予選でベスト4ぐらいまで行ったまあまあ強いチームでした。卒業後は進学ではなく就職を選び、最初に就職したのが通信関係ですね。一年ほど大阪で勤務、それから京都営業所の方に。20歳頃です。


まさに泡のごとし! 夢とバブルが弾けた

渡邉:どうして一番最初に野球の話が出たかというと、小中と一緒に野球をしてた幼馴染がいまして、家族ぐるみの付き合いをしてたんです。その友人が二十歳のとき病気で亡くなってしまった。彼の家は呉服関係の商売をされているお家だったんですが、後継ぎがいなくなってしまったということで、将来は僕がその息子さんの代わりとなって、その会社に勤めるという話になりました。

--なるほど。

渡邉:で、入社したのがちょうどバブルの走りの頃。好景気に業界も浮かれまして。僕のところは小さな呉服屋さんでしたが、それが金彩加工をやってる会社さんと一緒になってだんだん大きな会社に。会社の社長さんが石川県の人だったんですが、事業拡大で呉服の金彩加工が一番主力になっていって、じゃあ金箔といえば、というと石川県金沢。それと、当時主流だった友禅っていうのが、京友禅と並ぶ加賀友禅でした。

--中森明菜さんの影響でしょうか。

渡邉:そうそう(笑) 大正ロマンと言われたものがすごく流行って。そこで石川に新たな事業を立ち上げることになりました。金箔、金彩を使ったものを友禅と融合させると何か面白いものができるんじゃないの?と。そして僕は一社員として言ったわけです。「誰が行くんですかねえ」って。そしたら「お前言ってこいや」って(笑) 「え? ウソでしょ」って(笑) それで京都から一人で石川へやってきたっていうのが、そもそもの北陸へきた理由ですね。

--25,6歳?

渡邉:25歳くらいから子会社を作る準備で来てまして、最初に来たのは忘れもしない1995年の2月。雪が激しさに驚きました(笑)


豪雪の國に「おいで遊ばせ」

--2月やもんねww

渡邉:あんな雪見たことないんで。

--今まで京都大阪、 関西圏から出てなかったんですね。

渡邉:福井っていうと高浜とか敦賀のイメージで。言葉も非常に近いと思ってました。だから初めて福井にきたときにびっくりしたのが「での~」とか(笑) みんながそういうしゃべり方ですし。これにも驚きを感じました。それと、入り込むのに少し時間がかかる。特に福井の人はそうでした。でも入り込んじゃうとすごく人間味が暖かい。福井になじめた理由っていうのは僕が生まれ育ちが京都だってこと。京都も外から来た人たちに対してもの凄く冷たいですからね(笑)

--地元ながらよくわかります(汗)

渡邉:みんな言葉尻優しいんで、受け入れてもらえそうで受け入れてもらえない。18歳の時に初めて営業を経験したときの話ですが、はっきりジャッジしてくれるのが大阪。京都は同じように営業しても、「考えとくわ。またおいで」って言われるだけで一件たりとも契約に結びつかない。

--それが大阪と京都の大きな違い?

渡邉:ええ。ですから京都っていうのは人脈を作るのに時間がかかる分、信用してる人が信用する人なら間違いない。ってなる。そういう文化があるわけで。福井にも同じような文化があるんじゃないかなと。極力こっちから積極的にお付き合いをするように心がけていたら、そのうち、ぱっと心開いてくれる人も。

--その点は割と京都に近い?

渡邉:もの凄い近いと思います。ですから人と人との付き合いに興味がありましたね。それと福井は圧倒的に人がいいっていうか、温かいっていうか。昔ながらのおせっかいやきのおっちゃんおばちゃんとか、そういう雰囲気を持っている県なのかなってすごく感じました。福井にきてよかったなって思うところです。30年近く福井にいますが、京都へ帰ろうという思いはないです。やっぱり福井の人たちに育てて頂いたという思いがあります。 その形でやっていた呉服屋が約二年でバブルがはじけて、勤めてた会社は倒産することになったんですよ。


呉服屋倒産…!

--つらい思いでしたね。これはあれ、本店がつぶれたんですか?

渡邉:そうそう。毎朝本社から白生地が届いてそれを1日2日で加工して納品するっていうことをしていたわけです。でもその日の朝、「今日まだ生地こないな、おかしいな」とか言われてて。本社へ電話したんですけど繋がらない。当時携帯電話とかないですし、なんか嫌な予感がすると思ったんで、会社のスタッフたちには「とりあえず京都の本社行ってくるで、今日はもうここまで終わったらもうあがってくれていいよ」と伝えました。

--従業員は何人ぐらい?

渡邉:11人です。

--結構いましたね…

渡邉:で、本社に着きまして。そしたらあの時代ですからね…白とか黒の外車が沢山建物の周りに停まってるんですよ。もう雰囲気で分かったので本社を素通りして(笑)

--こわ~…

渡邉:会社の先輩の家へ行ったんです。事情を聞いたら「見ての通りや…」のひと言。「俺らはどうすんの」って言いましたら「知るかー‼」って(汗) これで会社がなくなったことを確信しました。

--11人は現地採用?

渡邉:そう。みんな僕のこと社長みたいに思ってるわけです。えらいこっちゃなー、給料もあるし…。で、とある会社さんにいろんな知恵を出していただいて助けてもらいました。それでなんとかお金を工面し急場をしのげた。…っていう経験です。

--それからどうなったんですか?

渡邉:とりあえず従業員の人たちには辞めて頂いて。不動産屋さんに言うたら、「それはもう会社をたたむしかない」と言われ。次は国民金融公庫さんとかに借入とかがあるわけですよ。僕の名前じゃないけども(笑) 

--僕の名前じゃない…

渡邉:国民金融公庫とかっていうのは、 ここで登記して営業所出します っていう土地に住民票がないといけなくて。こっち側で単独で借りようと思うと、誰かいないとあかんわけですけど、それが僕やったわけです。これからどうすればいいのかなって。そしたら前にお世話になった会社さんが、「ちょっと困ってる人がいるから助けてやってくれ」って弁護士さんを紹介してくれて。そこからは弁護士さんの指示に従いました。

--お客さんにしても弁護士さんにしても、よい方に出会いましたね

渡邉:その弁護士の先生が「もう一回ちゃんとした会社入って、一から仕事を覚えていけばいい。それも、もっと大きな会社へ行くべき」って言われたんですよ。大した経験もない自分やのに。それで弁護士さんが求人票を持ってきたくれたのが、福井の丸岡にある『山●製パン』。


大企業のキャリアを経て、羽ばたくときへ

渡邉:一か八か受けたら「転勤希望ならいいですよ」いうことで。「いいです。転勤ってどこですか?」って聞いたら、京都の黄檗(おうばく)に大きな工場があって、そこの管轄と。「昇進試験を受ければ京都に帰れる!」それはもう願ったりかなったりで「是非お願いします×2」って言って入ったんですよ。

--目標ができると働きがいができますしね

渡邉: 「京都に帰れる」という思いだけで必死に働きました。でも翌年に阪神・淡路大震災が起きまして、京都から名古屋の管轄に…。…ってことは京都に帰れなくなったんです。名古屋へ転勤するって空気になったとき、 単身赴任にもなるし、色々思うこともありまして辞めることを決断しました。それから、「次はもっと人と関われる仕事」がしたいと思い、今の仕事の元となる人材派遣業界に飛び込んだわけです。

--なるほど…。社長となる原点の以前にも、壮絶なエピソードが特盛でした(笑) 今回は一旦ここまで。次回は「人材派遣業界の転職から、いかに社長となったか」のエピソードをお送りいたします。Don’t Miss IT!!

代表取締役 渡邉義信
「人」とのつながりを重きに置く、お客様第一主義のアウトソーシングカンパニー『株式会社 プロダクト・マイスター』代表取締役。

株式会社 プロダクト・マイスター
【住所】 福井県鯖江市糺町21-1
【電話】0778-53-1231
【HP】あり

#人物#インタビュー#連載

  • ツイートするツイートする
  • シェアするシェアする
  • 送信する送信する