2019/10/16
発売中の月刊ウララ10月号では、エリア特集として「宝永地区」を大特集! その一部をご紹介します。
福井藩の城下町
宝永、江戸ストーリー。
初代藩主結城秀康から始まる江戸時代の福井の歴史。中でも、松平家の別邸『御泉水屋敷』をはじめとする史跡や数多くの偉人を輩出しているのが福井市の「宝永地区」だ。そんな歴史深いエリアを探訪してみよう。
宝永地区の江戸歴史アレコレ
【1】“宝永”という町名の由来は『養浩館』
町名“宝永”のいわれは『養浩館(旧・御泉水屋敷)』が関係しているのだとか! 元禄年間(1688~1704)に現在の姿に整えられたとされる福井藩主松平家の別邸『御泉水屋敷』。その後、7代藩主松平吉品が自らの隠居所にと「新御泉水屋敷」を建て敷地が拡大されたのが宝永5年(1708)。知らない人も多いと思うが、“宝永”は江戸時代の元号の一つだったのだ。後に16代藩主松平春嶽が『御泉水屋敷』が最大規模であった宝永年間にちなみ、このエリアを“宝永”と呼ぶようになったそう。
【2】芝原上水は“命の水”として城下を潤していた
「芝原上水」は福井藩初代藩主結城秀康が、家臣の本多富正に命じて作らせた上水道。「芝原郷(現永平寺町松岡)」で九頭龍川から取水したのが名称の由来で、上水路は城下町の北東に位置する志比口から、城内への流路と城下町への流路に分岐していた。江戸時代には、人々が飲み水として使った“命の水”とされ、手を洗ったり、洗濯したりして水を汚した者には厳しい罰があったという。
【3】“江戸町”ほか、城下町時代の旧町名が数多く残っている
宝永地区は福井藩城下町の中枢として、武家屋敷をはじめ寺社町・商人町・職人町として栄えた。そのため、子安町や天王町、与力町、鍛冶町、鷹匠町といった寺社や武士、職業に由来する町名や江戸町、八軒町、天草町など由緒ある町名が数多く存在。現在宝永地区には77の自治会があり、そのほとんどが城下町時代の区切り、名称を受け継いでいる。このように旧町名から歴史が感じられるのも宝永ならでは。
ちなみに“江戸町”は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の三女・勝姫が、福井藩2代藩主松平忠直の正室として北ノ庄城に輿入れした際に、江戸より随従した家臣(江戸衆)に居住地として屋敷割されたことで成立した町であった。
【4】『清圓寺』は2代藩主松平忠直の妻・勝姫の願いで建立した
京都の『浄土宗総本山 知恩院』の末寺である『清圓寺』は、福井藩2代藩主松平忠直の妻・勝姫の願いで建てられたという。また、福井藩初の留学生・日下部太郎(旧名・八木八十八)の菩提寺でもあり、寺内には八木家のお墓がある。
こちらでは何と江戸時代の建立時からの「過去帳」が残っており、勝姫や日下部太郎についても記載さている。空襲や震災により歴史的なものがほとんど失われてしまっているなか、当時を知る手がかりになる大変貴重な史料である。
【5】浮世絵の元祖・岩佐又兵衛は20年余りを『興宗寺』で過ごした
浄土真宗本願寺派の『興宗寺』は県内の真宗最古寺の一つで、江戸時代初期の絵師・岩佐又兵衛が20年余りを過ごしたことでも知られている。又兵衛は、当時呉服町にあった『興宗寺』を拠点として画作に励み、この頃の有名作品には『金谷屏風』などがある。後に江戸幕府3代将軍徳川家光に招かれ寛永14年(1637)に単身江戸に赴き、慶安3年(1650)に没。又兵衛の遺言により遺骨は福井に送られ『興宗寺』の墓に納められた。しかし、万治2年(1659)の大火焼失により『興宗寺』は西別院東隣(現・宝永小学校地)に移建。さらに昭和23年の福井大震災後に『興宗寺』は現在地に移建されたものの、岩佐又兵衛の墓は、同62年に現在の地に移るまで今の宝永小学校玄関前に位置していた。そのため、今も宝永小学校玄関前には碑がある。
【6】「おしんめさん」こと『神明神社』は、松平家歴代国主の崇敬も篤かった
北ノ庄総鎮護として鎮座し、江戸時代、福井の総社であった『神明神社』。今も市内随一の氏子数を誇り、多くの信仰を集めているが、松平家歴代藩主の崇敬も篤かった。福井藩初代藩主結城秀康は入封後の慶長8年(1603)に神領20石を寄進し、2代藩主忠直も元和5年(1619)に80石を加増。以来歴代福井藩主の崇敬は篤く、参拝を怠ることはなかったという。『神明神社』には、16代藩主松平春嶽直筆の絵馬も残っている。また『神明神社』境内の『合祭殿』には『袋羽(ほろは)神社』がまつられている。古くは『袋羽大権現碑』として建立されたが、江戸時代の天保・弘化の頃から社殿・鳥居・絵馬が寄進されて境内社としての姿を整えるに至った。子どもの夜泣きを止めるのに霊験があるとされ、鰊(にしん)を供え、絵馬を掲げて子どもの無事成長を祈願する習わしがある。「猫塚さん」という愛称は江戸時代の頃からだとか。
【7】 城下町の賑わいの中心だった『西別院』
福井御坊(西別院)は、万治2年(1659)福井藩4代藩主松平光通の命により現在地に移建。周辺には寺院が多数配され、寺町が形成されていた。その後数度の火災に遭うが、文久2年(1862)には全国屈指の威容を誇る本堂伽藍が再建された。老若男女問わず参拝者が多く、門前の北陸道沿いには商家が軒を並べ、絶えず賑わっていたという。
【8】『養浩館』の名付け親は松平春嶽である
江戸時代に完成した『御泉水屋敷』だが、後の明治17年(1884)に松平春嶽によって『養浩館』と命名された。「人に元来そなわる活力の源となる気」、転じて「大らかな心持ち」を育てることを意味するようになった孟子の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」に由来すると言われている。
月刊ウララ10月号(582円+税)のエリア特集「宝永、江戸ストーリー。」では、様々な角度から宝永地区の魅力にせまります。巻頭特集は「アートってなんだ?」。福井のアートを身近に感じられる一冊です。
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