
年末に本を出版するのでそこに集中させていただきたく、急ではありますが今回でこの連載を最後にさせてもらうことになりました。
最後に「僕の生き方」を語って終わりにしたいと思います。
僕は福井県の嶺南にあるおおい町で生まれ育ちました。当時、両親は仲が悪く、勉強もスポーツも人とのコミュニケーションも苦手で、挙げ句の果てには高校を中退し、17歳でみんなが朝通学してる中、彼らよりわざと遅らせた電車で隣の小浜市のガソリンスタンドのバイト先まで向かう時間は今思えば地獄でした。
その時間帯の電車は、当時は1両しかない汽車だったんですが、田舎の朝10時ごろの汽車に乗っているのは、病院に行くお年寄りが少しとずっと下を見てる男性やら独り言をずっとぶつぶつ言ってる女性。地元は車社会、旦那は畑仕事などで働いてるのでだいたい、お年寄りはその旦那の嫁が車で病院まで送ると言うイメージ。だからそのワンマンカーに乗っていたお年寄りは嫁と仲が悪い姑か、息子が独身で結婚していないおばあちゃんか、事実はわからないけど、多分そうなんだろうなと言う目でみてた17歳の頃の僕にはどんよりとしたネガティブ過ぎる空気だったことをいまでも覚えています。
僕に与えられるものは決まってるんだ、と誰かに思わされていました。勉強もできない、この町で生まれた、あなたには「これぐらいの仕事しかできない」と誰かが必ずいつも僕たちのできること、できないことを決めつけて、僕らが夢を見ることの光を奪います。
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ネガティブ過ぎる17歳の時の暗闇の世界から逃げ出そうと思ったのは当時、テレビでみてたお笑い芸人でした。バイトから帰り夜にテレビをつけ彼らをみて涙を流して笑っていました。寝る前もそれを思い出し涙が出るまで思い出し笑いをしてました。そしてお笑い芸人になろうと思ったんです。いま思えば「なりたい」ではなく「あの中にいたい」だったんだと思います。アメリカの映画を観てあの世界に入りたいのと同じように、あの中に入りたい、と。僕はやりたい事をやり行きたいところに行く。誰かが言う「お前には無理だ」だなんて声には惑わされない。大阪に行き、養成所に入りました。
同期はキングコングや山里などスター揃い。彼らは1年目から頭角を現してましたが僕は「行きたい、やりたい」だけで来たのでお笑いを作る能力は、ドラクエで言う「ヒノキの棒」レベル。でも、僕にはこれしかやりたいことがなかったしこれだけはやり通したかった。10年間、滑り続けました。でも客の笑い声がなくても、その無反応を信じ諦めるんではなく明日の自分はやれる、と明日の自分を信じ続けました。
そして漫才で、日本一に輝くことができました。嬉しかったことは、ずっとオーディションを受けていたときに自腹で劇場を勉強しに行き、その時観てたのが当時トップ劇場のトップだった、千鳥とノンスタイルで、その2組と、僕らで決勝を戦い勝って僕らが優勝したことです。あの時客席から観てた、あの、2組と全国の番組の決勝で戦って勝つ、それは子供の頃と、売れない芸人生活、合わせて20年近くの闇の中から、一瞬みえた光のようなものでした。
そこで思ったのはもしおれが福井にいたときにまわりから腐るほど言われた「お前には無理だ」と言う言葉を信じてたら、滑り続けてアンケートに書かれた沢山の「面白くない」と言う言葉を信じてたらあの瞬間は僕にはなかった。
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いま僕はテレビには出ていません。それは「創作する」と言うことにもっと取り憑かれないと僕はいなくなると言う恐怖があるからです。僕は漫才、笑いを作り上げ、マイクの前というしかるべき場所で表現し、いまがあります。ところが漫才で優勝してからはテレビに出る機会が増え、気付いたら、ネタを作って表現することから、遠のき、テレビに出ること、スタジオを盛り上げてまたテレビに呼ばれる事を目指してました。たしかにテレビでウケるのも嬉しいです、でも漫才のような作ったものをお金を払ってくれてる人の前で表現してウケる笑いの強さには遥かに及びません。それはテレビに出てる沢山のお笑い芸人のアドリブや大喜利やエピソードトークで笑いを取る笑いがとても軽く、チープに感じるようなものです。創作物こそが最強なんだ、そしてテレビの中はCMみたいなものでしがらみが多い。
ジョンレノンは当時のファンに殺されました、しかし、ジョンレノンがテレビタレントなら彼は殺されなかったと思う、テレビの中で、熱狂されるほど好かれず、憎いほどに恨まれず、程よく好かれ嫌われる、これがタレントです。
僕はたった一度の人生、どういきたいか、考えると、そこから出るべきなんではないかと思いました。水槽の中で生きる鯉はその水槽の中の大きさになり、大きな湖で生きる鯉はさらに大きくなります。芸能界という水槽をでて、40歳、さらに、創作物にとりつかれるために、つぎはアメリカに行きます。
来年の三月を予定してて、向こうには、大きな考えを持つ芸人、アーティストがごまんといます。その話をすると「これからは中国だろ」とマーケットの話をする輩がいるんですがマーケットを目指すなら芸人なんかやってません。アメリカは大統領や政治家はコメディアンに攻撃されます。それが認められてるのがアメリカで、世界最高の言論の自由がある場所はアメリカです。
そこが、湖なのか大海なのか、狭いと感じれば水槽だとも思う。このウララの連載を通して僕が一番言いたかったのは
「そこの君よ、君は君が思うがままに、誰の声にも惑わされず、明日の君を信じて、時に闘い、時には泣いてもいいから、君は君らしく生きていけ」
と言いたくて。この言葉を、あの頃の僕が誰か1人でもいいから大人から聞ければどんなに楽になっただろうか、と思います。福井という土地柄、県民性的に、どうしてもうちにこもりがちで、幸福度ランキング1位なんて言うけど水槽の中にいては、このままで、いいと思い込みます。
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僕は福井から19で大阪に行き30で東京に、40でアメリカに行きます。僕らの世界はとてつもなく広く沢山の人がいて、僕らは何にでもなれるという無限の可能性があります。この前、テレビに出てる先輩芸人にアメリカでコメディをやると話したら「お前には無理や」と言われました、彼は高校生の時の僕の憧れの人でした、しかし僕が芸人になってからは彼のことがすごく小さく見え始め、たまたま飲ませてもらった時に、アメリカに行く話をしたらそう言われました、彼自身、自分が諦めたものが多いんでしょう、諦めた人間は諦めない人間にこう言います「みんなやってるんやからおまえもやれ」と。
僕らは個人の集まりです、みんなとは個人の集まりなんです。だからまずは個を大切にし、その中で、集団を考えていけばいい。個を捨て輪にいることは楽です。しかし、それは機械になってしまう。僕らは人間です。「自分らしく」を生き続ける限り守り続けましょう。 僕は、おまえには無理だと言われた時に、あの頃の福井のまわりの連中を思い出して、ブレてない自分自身に、ニヤリとしました。僕は何にでもなれる、と40でもまだ思ってる。be動詞を39歳で覚えました。英語大丈夫?と言われます。やりたいかやりたくないかだけ、出来るのは、いつか、でいい。
家族のせいにしちゃいけないよ、場所のせいにしちゃいけないよ、年齢のせいにしちゃいけない。環境はその場所にしかないけど、可能性はあなたにある。だからその場所が嫌なら抜け出し、その関係性が嫌なら断ち切れ、我慢し、諦めると、あなたは誰かに、おまえには無理だ、と他人の未来を否定する弱い人になってしまう。
あなたの人生は親のものではない、あなただけのもの、あなたの未来はあなたの手の中にしかない。それを誰にも譲り渡してはいけない。夢を諦めた大人たちやその大人たちに夢を見る事を諦めさせられた子供たちは、君の手の中にある未来を平気で奪いとろうとしてくる。奪われてはいけないよ。強く掴んで離さなければあなたはいつかなりたい自分になれる。まずおれがそれを証明するよ。
福井県という場所が年寄りに安心を与え、若者が夢をみれる場所であることを願ってます。
ウララさん、読者の皆さん、長い間、読んでくださりありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
(おしまい)
村本大輔(むらもとだいすけ)
福井県おおい町出身。2008年位結成したお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」のボケ担当。ツイッター
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