【東京で出会います。】
2020/11/26
僕は脱文脈化された知識を崇高することに違和感を覚えていました。その最たる例がクイズ選手権の文化です。
特に学校教育では知識の脱文脈化という考えに基づいています。
国語、数学、英語…。これら教科と呼ばれる分類からもわかるように、知識を抽象化、体系化し、原理や法則、公式を構造的に分類しています。
そして、主に、その脱文脈化された知識を生徒が暗記することを「学習する」とし、「学習する」の度合いを正誤の割合で定量評価します。
学校教育を批判したいわけではありません。ここでいう問題は、学校教育が「教育」であり、「学習」そのものだと考えることにあるのでは、と考えました。それによって学校教育と学習が強く結びついて、学校教育以外の学習について軽視しがちになります。また、学校教育における主要科目に分類されない学習に関して学習と認知しにくくなるのではないでしょうか。
僕は以前、そのことについて、学校教育は視座を高めることができる場所であるが、広い視野を得ることができる場所ではない、学校教育は「必要だが十分ではない」ものと考えていました。しかしそれは「アポステリオリな知識」でしかなく、それも片生りの自分自身の経験の、結果論でしかなかったのです。
僕が代表を務める、高校生を対象に教育事業を行っている「BEAU」がいよいよ一般社団法人として新たなスタートを切りました。その関係で最近、様々な職業、立場、背景をもつ人に自分たちはどんな教育の実現を目指しているのかを説明する機会がさらに多くなったのではと思います。他人に話せば話すほど、思考が整理されていきますよね。事業の説明を重ねるにつれ、少しクリアになりました。
「社会実践をとおして、文脈化された知識を学ぶ」。これが、学校教育の補足として必要だとする社会実践をとおした学習の、「学校では学べないこと」の具体的な説明なのではないかと気づきました。
少々ややこしくなるのですが、本来、逆だったのではないだろうかと思うのです。さっき学校教育に対し社会実践という表現を用いたが、社会実践は言い換えれば「日常」です。そして、学校はその「日常では学べないこと」または、特定の人しか日常をとおして学べないこと、つまり専門的なことを、脱文脈化して知識としていくつかのパッケージにしたものを教わる場所と言えます。
しかしそれが制度化されすぎて、「学び」イコール「学校教育」となってしまい、日常での文脈的な学びは重要とされにくくなった。学校で学ぶことがすべてであるというような風潮や、脱文脈化された知識の暗記を競い合うこと、つまりクイズ選手権を、極端に祭り上げるに至ったのではないでしょうか。
そう考えると、「学校では学べないこと」を意図的に教授しようとする「教育」を行っているということは、形は変われど、本質的に再び学校を生み出しているようにも思えます。
別にそれが悪いことだとは思いません。そして、僕もクイズ、好きですね。
小原涼(こはらりょう)
2000年9月19日生まれ。株式会社RUProduction 代表取締役社長兼CEO。デザイナー。北陸高校二年生の時にファッションに特化したインフルエンサーマーケティング事業とデザイン事業を行なう『株式会社RUProduction』を設立。
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