2019/12/24
称念寺は長崎道場と呼ばれ、鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の寺。明智光秀は齊藤義龍の大軍に敗れ、明智城が滅ぼされた後に美濃国から越前に逃亡した。その時、称念寺の門前に身を寄せていたことでも知られている(光秀29歳の時)。
永禄5年(1562)、光秀と妻・熙子(ひろこ)は夫婦で門前に寺子屋を開くが、生活は困窮を極め士官の芽もなかなか出ない。しかし夫婦仲良く、つつましい生活をしながら再起をうかがっていたそう。
光秀が35歳の時、転機が訪れる。朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスに恵まれたのだ。この連歌の会は、単なる行事ではなく、光秀にとっては成功すれば士官になれる絶好の機会でもあり、失敗できないものであった。光秀には会を催す資金がなかったが、熙子が自慢の黒髪を売って資金を用意し、歌会を成功に導いた。妻の献身的な努力が光秀の士官を叶えたのだった。
称念寺門前では、「明智の寺子屋」や妻・熙子の「黒髪伝説」が残っている。また、松尾芭蕉が奥の細道の道中、称念寺に立ち寄った際この伝承を聞き、感激して詠んだ句「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」の句碑も境内に残っている。
称念寺には、鎌倉幕府を事実上壊滅させ、後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった新田義貞の遺骸が葬られている。南朝方のリーダーとして生き、越前で戦死したというエピソードからのもので、墓石も建てられ木像が安置されている。
住所/坂井市丸岡町長崎19-17
時間/境内見学自由
休み/無休
料金/無料
お問合せ/0776-66-3675(称念寺)
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