2019/12/24
文明4年(1472)、敦賀郡を支配した朝倉景冬から、宗滴をはじめとする歴代敦賀郡司の敦賀統治の拠点となったかつての金ヶ崎城があった城跡。
元亀元年(1570)、織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」が、朝倉攻めの際に「朝倉軍」と対峙した場所としても有名。約4500の朝倉軍に対し、約3万の織田・徳川連合軍が優勢で、朝倉軍は金ヶ崎城とその峰続きの手筒山城を信長に明け渡すこととなった。
しかし浅井長政の裏切りによって形成が逆転。戦国史上有名な信長の撤退戦となったことから「金ヶ崎の退き口」「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれる戦いの舞台である。
この時、家臣の明智光秀・木下秀吉・池田勝正らは、信長が帰還したという知らせを聞き、退却戦を開始した。この3武将が殿(しんがり)軍を務め、彼らの活躍により信長は無事に生き延び京へ舞い戻ることができたと言われている。
殿(しんがり)軍とは、後退する戦隊の中で最後尾を担う部隊で、敵の追撃を一手に引き受け戦いながら自分も撤退するという、困難を極める役割のこと。他の部隊が後退するまで孤軍奮闘し少数精鋭で務める、命がけの部隊であった。
金ヶ崎城址は小高い山にあり眺めも良く、現在は桜の名所としても知られる。城址は国の史跡にも指定されている。
住所/敦賀市金ケ崎町
時間/見学自由
休み/無休
料金/無料
お問合せ/0770-22-0938(金崎宮社務所)、0770-21-8686(敦賀観光案内所)、0770-22-8167((一社)敦賀観光協会)
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