2019/12/24
一乗谷朝倉氏遺跡は、朝倉氏五代が戦国時代に103年間にわたって越前の国を支配していた城下町の跡。美濃国から越前に落ち延びた明智光秀は、この朝倉氏最後の当主である義景に、織田信長に仕える以前に仕えていたと伝えられている。
光秀が35歳の時、加賀の一向一揆が越前に襲来。文武両道を極めた光秀は、朝倉軍に鉄砲指南役として抱えられ、智才を活かして勝利に貢献。これを機に朝倉義景の客臣として一乗谷に迎えられたと言われている。
朝倉氏は天正元年(1573)に信長によって滅ぼされてしまうが、一乗谷には朝倉氏統治時代の遺構が数多く残る。武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、往時の様子をうかがうことができる。金閣寺などと同様に、国の特別史跡、特別名勝および重要文化財指定の三重指定を受ける貴重な遺跡である。
NHK大河ドラマの放送を記念し、「明智光秀ゆかりの地」の文言と、明智家の家紋を配した一乗谷の御朱印を、一乗谷朝倉氏遺跡復元街並で販売。1枚300円で、復元街並南入場口受付で購入できる。唐門のイラストが入った通常デザインもある。
光秀が、朝倉氏に仕えていた一時期を過ごしていた、と言われる一乗谷朝倉氏遺跡。一乗城山に築城された山城・一乗谷城と、山麓の城下町からなる遺跡だ。この一乗谷城が、城という軍事的防御施設として、趣向を凝らした守りの仕掛けの数々を行っていたこと、またその遺構が多く残っていることで注目を集めている。
標高473mの一乗城山に築城されていた一乗城。現在残っている軍事防御施設は、曲輪、空堀、竪堀、畝状竪堀(うねじょうたてぼり)、堀切などで、それらの遺構が尾根や谷筋に沿って残っているのが見られる。
「曲輪」とは城内の平坦地のこと。城の防御の基本である堀とは、石垣とセットになった水堀も多いが、山城の場合は水のない「空堀」となっている。空堀の種類のうち、斜面に対して直角に堀ったものが「横堀」で、曲輪を取り巻くように掘られている。対して斜面に並行に掘ったものが「竪堀」。一乗谷城は、めずらしい竪堀を採用しており、敵が斜面で横移動するのを防いでいたと言われる。
竪堀を連続して並べ、その効果を高めたのが畝状竪堀。織田信長の侵攻に備えて築かれたと言われる約140の畝状竪堀が、要所に築かれている。
山頂にある山城の主郭部分を狙う敵が進むのは、尾根づたい。それを防ぐために尾根筋を断ち切る仕掛けが「堀切」だ。
一乗谷城の周囲以外にも、「上城戸(かみきど)」「下城戸(しもきど)」がある。当時の正面にあたる場所に築かれた上城戸は、土塁の長さ約100m、高さ5mもある防御壁。下城戸は、重さ45t以上の巨大石を用い、高さ4m、長さ38mもの構えで敵の侵入を防いだ。
このように、朝倉氏遺跡には城の防御設備の遺構が多く残されており、“城の防御の仕掛け”の視点から遺構を見てみるのも面白い。
住所/福井市城戸ノ内町
時間/見学自由(復原町並は9:00~17:00 ※入場は16:30まで)
休み/無休
料金/無料(復原町並は220円、中学生以下、身体障害者、満70才以上無料) お問合せ/0776-41-2330(朝倉氏遺跡保存協会)
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